大竹伸朗展
憂鬱で芸術的、かつサイケデリック。エネルギーの爆発。70年代に経済不況と若者の失業率の高さを背景にロンドンで生まれたPUNKだったり、その後のPOST PUNKの実験性であったり(実際に大竹伸朗は70年代の初期DAFなどと音楽活動をしていた)。これが私の大竹伸朗氏のイメージだ。
美術館に行って、作品を見て、魂を揺さぶられて、その後の自分の生き方にまで影響を与えられたことは皆さんにはあるだろうか。
私は何度かあって、特に若い時に多いけれど、2002年マシューバーニー「クレマスターサイクル」in写真美術館だったり、2004年ビル・ヴィオラ「はつゆめ」in森美術館だったり、2003年オラファー・エリアソン「The Weather Project」inテートモダンだったり、2006年大竹伸朗「全景」in東京都現代美術館だったりする。最近だと2020年石岡瑛子「血が、汗が、涙がデザインできるか」in現美もそうだった。
2006年の大竹伸朗「全景」は2000年代以降のアート界で伝説になっている展覧会だ。
あの、国内最大級の広さの巨大美術館を全てジャックし(屋外まで)、作品総数2000点。アトリエのある愛媛の離島、宇和島から作品を運ぶのに4トントラック27台を稼働させたという伝説の展覧会だ。あまりの規模に図録の制作が全く間に合わず、確か手元に届いたのも展覧会から半年も後だったりした記憶がある。(ちなみにこの展覧会の図録は1200ページもあり、私の持っていいる美術書の中でも最多ページを誇っている)
私はその圧倒的なエネルギーを前に展示を一度に見きることができず、「一度外に出て休む」を3回も繰り返して観た程であった。
そして今回もそれに近い状況(とは言え作品数500点なので1/4)になり、「一旦外に出て落ち着く」を2回繰り返して最後まで鑑賞してきた。
とてつもなく高密度な作品が次々と現れ、私の脳が処理に追い付かずにフリーズしてしまうからだ。
今回の展示は全ての作品が撮影可能であったので、いくつか撮影して昨日インスタのストーリーに上げていたけれど、それをここに再掲するのは控えることにする。
あの時は作品の熱量にヤラレてついついアップしてしまったけれど、特に大竹さんの作品は実物を見ないとそのエネルギーを感じることは出来ないので、写真は無意味だ。
今回、私が特に感動したのは、2022年の最新作「残景0」だ。とてもエネルギーを頂いた。
こういった現代アートを観る時、「自分が感じるままに鑑賞すればよい」のは勿論だけれど、大竹さんの場合はその心底にある「憂鬱さ」であったり「怒り」であったり、そんな感情に惹きつけられるところが強くある。
大竹さんの著書なんかを読めばよくわかるが、その作品全てがとてつもない重みを持って作られている。
それは大竹さん自身がよく語っているように、「何故これを作ったのか全くわからない」とか、作品制作にあたり「そのとき身の周りにある材料やゴミしか使わない」というふうに、自ら縛りをつけて偶然性を取り入れたとしても、それ以前に、大竹さんの中で自分の中にしか見えない言語化できない湧き上がるイメージを何とか外に出して解消したい、そうしないと生きていけないといった日々の苦しさ、そして作っていくうちに「ここだ」といった突如現れるゴール。
作品制作とは「わからないこと」をわかろうとすること、そして再び出会ってしまう次なる「わからなさ」に抑えがたい衝動を覚えてしまうこと、その繰り返しだ。