死生観

 



この本を読むと、人は若くても「死」を目前にすると、見事なまでの精神の成熟と深化を見せるということがわかる。極限の体験は「何か」を掴み取る。
人間、誰しも直面する死。

戦時中、彼らは出陣の1年後に亡くなった。

私世代の多くも今から50年後には死んでいる。

ではこの1年と50年に違いはあるのだろうか。


違いはない。


死生観は極限状況におかれた人々だけの問題ではない。生き物として生まれた者は誰しも必ず直面する問題であり、誰しもが少しは考えておいた方が良いことだと思う。

今までも何度か書いたけど私には軽い鬱の気があるので(日常生活が送れる程度)、想像力を使った「自分の死」の想像は落ちる時期に入れば繰り返ししてしまう。

「死」なんて考えた事がないし、よく何かわからないなんて人は、人間の生死を描いた文学や映画を「想像力」の極みにおいて読み「死」と対峙すれば少しは感じることが出来ると思う。

冒頭で紹介した手記もそうだし、今は実際に世界で戦争が行われている。


例えば戦争の小説なんかで仲間が銃で撃たれるシーンがあるとする。腹を撃たれた仲間はあまりの苦しさに「殺してくれ。殺してくれ」とせがむ。しかし、助ける事も殺すこともできない。

何が辛いかと言えば、撃たれてもすぐに死ねないから辛い。撃たれて死ぬ時は、腹を撃たれた時が一番苦しい。

腹を撃たれ、戦場なのでロクな救護も受けられずに一晩中苦しみながら泣き叫ぶ。

あまりの苦痛に気が狂い、どこからか遠くから、敵陣の声と共に幻聴が聞こえる。


こうした文章を、想像力の極みにおいて、読む。

人間の命に深い思いを持って、読む。


もちろんこんな重たく堅苦しい事考えなくなって、スマホ片手にジャンクな情報を摂取し続けながら毎日適当に楽しく生きていける。

「もしもいつか病気や事故にあったら、その時考えたらいいんじゃね?」でも、楽しく生きていくことはできる。

けれども、人生において真に充実した生き方を求めるなら、胸に刻むべきだ。


メメント・モリ(死を想え)


と。


人間は誰しも「最期の場面に向かって」歩いていると思うかもしれないけれど

そうではなくて、まず終わりを考え、「最期の場面から人生を見つめて」歩いた方が良いに決まっている。

「自分は必ず死ぬ」と人生の中に覚悟を定め、「いかに死ぬか」を求め、そこに向かい人生を追求していく。


私の想像でしかないけれど、見事に、「いかに死ぬか」を求め、最後までやりきった素晴らし人生だったと思う。


私のスターの一人で、若い頃に影響を受けた一人でした。


チバさん、本当にお疲れさまでした。