或る日の夢日記 #2
午前二時十二分、クリーニング店が開いていた。
開いていること自体は珍しくない。
この辺りの店は、昼間より夜の方が電気代が安い。
おかしかったのは、店の前に三人の客が並んでいたことだった。
白いジャージを着た老人。高校生くらいの女の子。それから、昔の父親によく似た男。
父はまだ生きている。
先月から月にいる。
だから似ているだけだと思った。
看板には、
「朝九時仕上がり」
と書いてあり、その下に手書きで、
「本人の場合」
と書き足されていた。
女の子の順番になった。
彼女は黒いセーターを差し出した。
店員が、
「染みですか」
と聞いた。
「いえ」
「匂い?」
「いえ」
「じゃあ何でしょう」
女の子は少し考えて、
「昨日です」
と言った。
店員は「ああ」と納得した。
「これは結構残ってますね」
「取れますか」
「完全には難しいかもしれません。こういうの、時間が経つと繊維に入っちゃうんですよ」
「昨日なのに?」
「昨日だからです」
店員は黄色いタグを付けた。
女の子は声を出さずに泣いていた。
僕は怖くなって店を出た。
空を見ると、月の横を三機の宇宙船旅客機が垂直に上がっていた。
その向こうに、本物の月があった。
では、さっき月だと思っていたものは何だろう。
国道まで歩いた。
ところが何度歩いても、同じ美容室の前を通った。
青い屋根。
植木鉢。
料金表。
「人間によるカット 22,000円」
四回目に通ったとき、店内で美容師が髪を切っていた。
五回目。
美容師がこちらを見た。
六回目。
美容師はいなくなっていた。
客だけが椅子に座っていた。
僕だった。
道路を挟んで、僕と僕が見つめ合った。
向こうの僕が何か言った。
ガラス越しなので聞こえない。
か
え
す
な。
携帯が鳴った。
母からだった。
母は十七年前に死んでいる。
とはいえ、母から電話が来ること自体は珍しくない。
死者通話サービスには加入している。
ただし、僕は去年解約した。
「もしもし」
母の声がした。
「聞こえてる?」
「聞こえてるよ」
「そっちは何年?」
僕は答えられなかった。
「お母さんは?」
と聞いた。
母はしばらく黙った。
「まだ、あなたを産んでない」
電話が切れた。
画面を見ると、通話時間が、
「−00:17」
になっていた。
クリーニング店に戻った。
もう誰も並んでいなかった。
店員だけがいた。
「何を出せばいいんですか」
店員は僕の胸を指差した。
「皆さん最初はそうなんですよ」
「何がですか」
「自分が着てると思うんです」
店員は伝票を出した。
そこには知らない男の名前と、僕の住所が書いてあった。
生年月日は同じだった。
「これ、僕じゃないです」
店員は伝票を見た。
「あ、本当だ」
赤ペンで名前を消した。
「最近多いんですよ。本人じゃない人」
「どういう意味ですか」
「さあ」
店員は赤ペンのキャップを閉めた。
「じゃあ、あなたはまだですね」
「まだ?」
「九時以降です」
「何が?」
「本人が」
店員は僕の後ろを見た。
振り返った。
誰もいなかった。
もう一度店を見ると、シャッターが閉まっていた。
貼り紙があった。
「長らくのご愛顧ありがとうございました。
二〇六一年九月十一日をもちまして閉店いたしました」
僕はスマホを見た。
二〇六一年九月十日。
午前二時十二分。
明日だった。
家に帰った。
時計は午前八時五十九分になっていた。
どうして六時間以上経っているのか分からなかった。
靴を脱ごうとしたとき、玄関のチャイムが鳴った。
ドアの向こうから男の声がした。
「クリーニングです」
僕は返事をしなかった。
「仕上がりました」
少し間があった。
「ご本人で間違いないですか」
時計が九時になった。