或る日の夢日記 #1
そのLINEが女性から来たのは夜の10時40分だった。
「会いたい」
それだけだった。
アイコンには名前も写真もなかった。
けれど、誰からなのかは分かった。
指定されたホテルは、駅から歩いて十分ほどの場所にあった。
初めて見るホテルだった。
入口に人はいなかった。
フロントもなかった。
壁に小さな画面があり、
AIコンシェルジュが「何名様ですか」
と聞いてきた。
僕は「二人」と答えた。
画面が一度暗くなった。
コンシェルジュが「現在、一名様です」
と答えた。
「もう一人来ます」と僕が答えた。
「もう来ています」
と返ってきた。
307号室の鍵が出てきた。
エレベーターには鏡がなかった。
三階で降りる。
廊下のいちばん奥に彼女は立っていた。
黒いワンピースを着ていた。
肩が出ていた。
髪はまだ少し濡れていた。
近づくと、知らない香水の匂いがした。
「久しぶり」
彼女が言った。
「いつ以来だっけ」
「明日で三年」
変な言い方だと思った。
部屋に入った。
彼女は靴を脱ぎ、裸足で窓際まで歩いた。
街の灯りが肩から背中に落ちていた。
窓の向こうを、音もなく何かが横切った。
この街では珍しいことではない。
僕は冷蔵庫から水を出した。
「飲む?」
「いらない」
彼女はこちらを見た。
「まだ、その癖あるんだね」
「何?」
「緊張すると水を飲む」
僕は笑った。
彼女と会うのは初めてだった。
少なくとも、僕の記憶では。
彼女が近づいてきた。
指先で僕のシャツの襟を直した。
そのまま指が首筋に触れた。
冷たかった。
「痩せた?」
「たぶん」
「前の身体の方が好きだった」
「前の?」
「うん」
彼女はそれ以上言わなかった。
左手の薬指に、細い跡があった。
「結婚してた?」
と聞いた。
彼女は笑った。
「あなたと?」
「いや、僕じゃなくて」
「じゃあ誰と?」
彼女の顔が近かった。
唇に小さな傷があった。
なぜか、その傷を知っている気がした。
彼女は僕のシャツのボタンを、ゆっくりと上からひとつずつ外した。
三つ目を外したところで、胸に頬をつけた。
「何してるの」
「確認してる」
「何を?」
答えなかった。
彼女の唇が首筋に触れた。
キスというより、そこに何か書いているようだった。
僕は彼女の腰に手を回した。
ワンピースの生地は思っていたより薄く、その下の体温が手のひらに伝わった。
彼女は少しだけ身体を預けた。
耳元で息をしていた。
「懐かしい?」
「何が?」
「私の身体」
「初めてだよ」
彼女は離れて、僕を見た。
「そういうことにしたんだ」
それから僕の下唇を指でなぞった。
「電気、消して」
ベッドが軋んだ。
彼女の手が僕の手を探した。
指を絡めた。
暗闇の中で触れていると、ときどき彼女の身体の場所が分からなくなった。
肩だと思って触れたところが腰だったり、
髪に触れたはずなのに、次の瞬間には僕の指が彼女の指の間にあった。
「ねえ」
彼女が言った。
「何?」
「目、開けないでね」
「開けてないよ」
「嘘」
彼女が笑った。
その声を、僕は知っていた。
ずっと昔に付き合っていた森下さんと言う女性が、同じ笑い方をしていた。
最後に会った夜、彼女は、
「次に会っても、たぶん私じゃないよ」
と言った。
当時は、別れ際の嫌味だと思っていた。
窓の外が白く光った。
一瞬だけ部屋が明るくなった。
彼女の隣に、もう一人寝ていた。
僕だった。
目を閉じていた。
次に光ったときにはいなかった。
僕は起き上がった。
「今、誰かいた」
彼女は僕の口に指を当てた。
「見ない方がいいよ」
「何を?」
「前のあなた」
スマホが震えた。
午後10時40分。
メッセージが一件届いていた。
「会いたい」
送信者は、僕だった。
僕は彼女に画面を見せた。
「これ、どういうこと?」
彼女は見ようともしなかった。
「知らない方が楽だよ」
「君は知ってるの?」
「少しだけ」
それから彼女は僕の胸に頬をつけた。
しばらく、何も話さなかった。
気がつくと午前2時20分だった。
彼女が身体を起こした。
床に落ちていたワンピースを拾った。
「もう帰るの?」
「うん」
彼女は服を着た。
背中のファスナーを上げようとして、途中で止めた。
「やって」
僕はファスナーを上げた。
首元まで上げると、彼女は髪を外に出した。
その仕草も、知っている気がした。
彼女は靴を履いた。
ドアを開ける。
「また会える?」
彼女は振り返った。
「たぶん」
「たぶん?」
「次の私が、あなたを好きならね」